カランコロン漂泊記―ゲゲゲの先生大いに語る (水木 しげる (著))

水木しげる先生のエッセイ。

昔の人のエッセイや、昔に書いた本、フィクションやノンフィクションに限らず時代が反映されているものや昔に触れられるものは読んでおいた方がいいですね。

このエッセイの中でも、虐待されて船に乗せられて死んでいった子供の話や、当時の軍隊内の様子、南方アジアに連れていかれたり、その時の現地の人たちとの関係など、現在からはあまり考えられないことが結構書かれています。もし、自分が木木さんだったらどうしたかなど考えさせられますね。

水木さんは結構とぼけた人で、いっぱい食べていっぱい寝るために必死になっていて、軍隊内でもよくビンタされていたようですが、自分だったら怖くてあんなに逆らえないだろうと思います。

かといって、頭が悪い単細胞というわけではなく、小林よしのりさんの『戦争論』に対しては少し危機感を持っていたようです。

戦争中の興奮を知っていて、平和主義者でも戦争に勝てば喜んでいた時代、今(といっても本の出版は2000年)自信を無くした日本人が戦争で再び喜んでいるのに違和感があるのでしょう。しかし、それを直接は主張せず、結構持って回った語り方をしていることから、京極夏彦さんがあとがきで「照れ屋」と言っていたのも納得できます。

常に世の中を斜めから見つつ面白がっている人だったみたいですね。

従軍慰安婦問題についても触れています。「地獄だった。あれは体験した人にしかわからない。賠償はすべきだろう。」と言っています。

ただ、漫画の中でも書いてあるように、朝鮮だけでなく日本や沖縄からもつれてこられており、待遇にも大きな差別があるようには思えず(というか沖縄に若干差別があることに現代人としては少し驚きなのですが)、軍による強制性や、そもそも人殺しに行っているのに、現代の倫理観で善悪を問うようなことになっているのではないのかとか、結構疑問を覚えます。しかし、かわいそうと思うのも当然の話かと。保障するなら日本人も含めた方がいいように思います。

これは他の本にも書かれているのですが、この本の中では「睡眠力」という形で少し触れられている話です。水木先生はとても「生」への意志があふれた方で、マラリアになり、腕が取れてそこにウジがいていても腹が減ったといってご飯を食べるような人で、やはりその生きる気力が93歳の長寿につながったのでしょう。

水木先生は自分の戦争体験や、過去の今では考えられないような話を結構本にして遺して逝かれたので、読んでみると価値観をゆさぶられてよいと思います。

不滅のあなたへ (大今 良時 (著))

ジャンル的にはSFになると思います。読んでおいた方がいい。

主人公はこの世全てを複製し、理解することを使命として産み落とされます。最初は石やコケだったのが、動物を理解し、人間になり、言葉を覚えて、守るために戦い、喪失を知ります。理不尽な死や満ち足りた老衰も経験しますが、その反応はやはり子供の用で、納得できずに引きこもろうとも強制的に物語を進められます。

SFには永遠の命を持った人が出てくる系の話というのがあって、漫画だと、『 火の鳥 』とか『EAT-MAN』、小説だと 『みずは無間』 とかが思い浮かびます。他にもいっぱいあるとは思いますが。

科学技術のギミックによる面白さは実はSFの本質ではなく、 SFの本質は社会を俯瞰することにあります。ユートピアやディストピア、宇宙へ出たりロボットや猿に支配されたりするのは社会の本質を暴こうとしているからです。そういった社会の中で主人公は俯瞰して状況を把握し、生きることの意味を見出していく。そこにSFの価値があると思います。

物語がたとえ荒唐無稽でも、その本質はあらゆる仮定から生きることの本質を考えようとするものです。

よって、死なない人というのは実に都合がよく、その社会が共有しているルールやその中で当然とされている生き方に疑問を抱かせるのが、不死者の役割なっています。しかし、えてしてそういう作品は主人公が答えを見出さない、あるいは教えてくれないまま終わるような気がします。

つまり、命とは、生きるとは何かに対して疑問を投げかけるだけで、あまり成長しないような気がするのです。

しかし、この作品は何らかの答えに向かって主人公が成長しています。

主人公の能力は複製とか変身です。対象物を理解して身に収めることでができます。なので、この作品を見たときに『EAT-MAN』にインスパイアされた作品かと思いました。

主人公のこの能力はこの世のすべてを理解するという使命のためにあります。つまりアカシックレコードですが、それは全知全能ですべて思いのままになる神が最後に欲するのは知識や能力ではなく「物語」であるという私の好きな考え方からきているように思います。つまり、物語に登場する「黒いの」は我々読者なのではないでしょうか。

主人公は人の死や思いを理解して取り込むことで成長する。つまりこの作品のテーマは全ての物語の収集という使命を主人公に持たせることによって、物語のゴールが主人公の成長になっているのです。

なので、主人公は成長するしかありません。どうしても神様のような立ち位置になってしまいがちな他の不死身系の話とは違います。戦いをやめて隠居生活をしようとしても強制的に事件を目の当たりにし、苦しめられ、成長させられます。

この物語は最後、主人公がもう一つ宇宙を作って終わる気がします。

いい加減くらいが丁度いい ( 池田 清彦 (著))

前半は社会にある問題を生物学の知見を交えつつ先生の考えを述べています。最後の方は先生の過去のお話や、定年後はどうするかなどの話で、全体的に何か熱意をもって解決しようとかではなく、斜めから見たボヤキに近い感じになっています。つまり、全体が「いいかげん」のすばらしさを説いているといえますね。

池田先生はやはり人間的に面白い方で、本の内容も「気づき」や「知見」だけでなく、肩の力が抜けて面白いという感じです。

しかし、先生の「構造主義生物学」は生物を物質の集まりや積み重ねではなく、全体をシステムとしてみる生物学で、最近は結構受け入れられるようになってきたようですが、やはりまだ教科書に載らないような分野らしく、学ぶことで多くの「気づき」が得られます。最近はのほほんとした本しか出しておられませんが、真面目でおもい内容の過去の著書にこそ先生の知見が凝縮されています。

池の水全部“は”抜くな! (月刊つり人編集部 (著))

以前から私が疑問に思っていた外来種の駆除に対して深掘りされている本です。

外来種の駆除は確かに必要かもしれません。ヒアリなどの日本にいなかった種が突現日本に現れ何らかの被害にあう。ましてや被害者が子供ならおちおち外で遊ばせられないし、パニックになるのは当然でしょう。

しかし、私が依然見たTVの中でニホンザルと外来種の猿の交配が問題になっていました。交配してしまったらその子供はニホンザルとの区別がつきにくく、純粋なニホンザルを守るために外来種のサルやその子供は駆除してしまおうという話でした。

その時に非常に違和感を覚えたのです。まず、外来種であろうが何であろうが、生き物の命を奪うのにはそれなりの「言い訳」がいります。食べなければ死ぬとか、家畜を害するからなど仕方なく生き物の命を奪うのであって、誰だって犬や猫を悪戯半分で殺していたら違和感を持つでしょう。

はたして、外来種のサルの駆除が、人間の倫理観に照らして妥当といえるのでしょうか。ニホンザルからしたら、自分のパートナーや子供を殺されるわけですから「守ってくれてありがとう」ではないはずです。

ニホンザルに関してはこの本の中でも少し出てきますが、他にも、そもそも外来種とは何かが書かれています。外来種とは明治以降に入ってきた種を外来種と呼んでいるだけで、もちろん明治と江戸の間に何か生物学的なイベントがあったわけではないので、その境界には意味がありません。 なので、奈良時代ごろに入ってきたモンシロチョウは外来種ではないそうです。

他にも、人間の利益になる外来種もいます。ムール貝などは昭和初期に海外からくる船によって運ばれてきた外来種ですが、食用として利用されています。

そもそも、人間に害のある種は在来種であろうが変わりません。スズメバチは年間熊より人を殺していますが、絶滅させるべきでしょうか。

外来種は入ってきたときは生態系の隙間に入り込むので、爆発的に増えますがその後は落ち着くそうです。増えすぎると自分たちの餌がなくなって住みにくくなったり、餌として捕食されたりするからでしょうが、そうなったとき、本当に駆除する意味があるのでしょうか。安定した生態システムを人間が改ざんするにはアドホックに1種絶滅させるだけでは無駄で、全体への影響を考えてバランスを整えないといけません。そこまでの情報を集めて、分析して生態系をデザインすることが果たして可能なのかは非常に疑問です。

そもそもエコロジーに関しての議論はいつも「絶対的な自然」があるという前提ですが、現在人間のかかわっていない場所などありません。田んぼにカエルがいることには確かに風情を感じますが、田んぼは人間の作ったもので自然とは言えないでしょう。しかし、現在地球が温暖化しているならば、地球のどこにも手付かずの自然はないということになります。

偉大な自然や、美しい自然に思いをはせるのと、実際に人間ができる最低限のこととは区別すべきでしょう。

なので、この本の結論としても最低限の害獣、害虫駆除はするべきだが、あまり極端なことは無理だというものになっています。

やはり、極端なことあまりよくありませんね。

何故勉強すべきなのか

昔の親は楽だったのかもしれません。子供に勉強しろというのは当たり前だったからです。

高学歴の取得には多少の疑問を持ちつつも、それでも余程の才能ややりたいことがない限り、勉強すべきというのが親、教師、子供の共通認識だったように思います。

しかし、現在その共通認識が崩れているように思います。実際独立している若い人は面白いアイデアなどを考えて、特に何か学問を納めずとも成功している人が多いように思います。ホリエモンも「学校へ行くのは無駄」と言っています。

彼らも勉強をするなとは言っていません。逆に人よりはるかに勉強をして行動しろと言っています。

これは昔からそうなのですが、企業の社長や成功者は本の中で自分の哲学や思想を語ります。それは生き方に迷っている人間に勇気や示唆を与え行動を促すということで、意味のあることだとは思います。

しかし、そういった本はその人の体験談や考え方を書いているだけで、学問としての哲学とは全く別のものだと思います。もちろん同じ考え方を別の言い方に置き換えているだけで、根本的に同じことだったりはしますが、人間である以上所詮自分の意見に過ぎず、学問的なつながりの上に成り立つカントやウィトゲンシュタインの思想とは全く別物でしょう。

法律というシステムはそもそも西洋哲学の上に成り立っています。西洋哲学を学ばなければなぜその法律があり、何が根拠でなぜ必要なのかなどがわかりません。

私が危惧するのはそういった大きな学問的体系を無視して独自の思想で突っ走る集団が今後現れるのではないかということです。

今いるインフルエンサーという人たちが自分の経済的成功を背景に若者にビジネスを超えて思想や哲学について語り、 人生を指南するときそういった学問的背景、過去の天才が人生を賭け書物として後世に残し、後の天才たちが革命的アップデートを施し完成に近づけてきた学問を横に置いておいて、「わからなくても即行動する!」ということで何かをやらかすのを社会は止められるのでしょうか。

今までは何をやるにも国家や法律の下でルールを守ってやるのが当たり前でした。しかし、今後は個人や企業の力が大きくなり、国家を形成することも可能でしょう。独自の通貨を持ち、近代の許容できない思想で動く集団が今後現れるかもしれません。

結論:勉強は知らない人と仲良くなるためにする

恐らく、今後は小学校卒業程度の知識や常識を持たず、しかし知能や個人としての能力や求心力は高いという人がたくさん現れると思います。しかし、人間がサルから進化したことを知らない人は、黒人の方と初めて会った時に肌の色の違いだけで人間ではないと思った愚を繰り返しかねません。今まで見たこともない、考えたこともないことを排除して生きるのは簡単で思い切りがいいようですが、人生は理解できないことの連続です。わからないことに出会ったときに、先人の知恵が少しは役に立つかもしれません。