ベンチプレス
30KG*10REP
45KG*8REP
55KG*6REP
65KG*3REP
75KG*3REP MAX換算:81KG
懸垂
15REP-逆手8REP
2日遅れ
中4日空いてしまいました。でもベンチプレス3回目前回より楽だったので次は4回行くと思います(3回目も少し失敗)
6日で1REP増えるとして、計算上57日で100KG挙げられるはず(*’▽’)
30KG*10REP
45KG*8REP
55KG*6REP
65KG*3REP
75KG*3REP MAX換算:81KG
15REP-逆手8REP
中4日空いてしまいました。でもベンチプレス3回目前回より楽だったので次は4回行くと思います(3回目も少し失敗)
6日で1REP増えるとして、計算上57日で100KG挙げられるはず(*’▽’)
お金持ちと話していると結構家柄がよかったり、親がお金持ちだったりします。
なので、結論は
「お金持ちになりたかったらお金持ちの家に生まれよう」
になるのですが、例えば、宝くじに当たった人はずっとお金持ちでそのまま子供もずっとお金持ちになるかといえば、どうやら違うようです。
億単位の大金を手に入れた場合、堅実に資産運用すれば減るどころか使いきれないほど増えていくように思いますが、現実はそうではないようです。
ある統計では、当選者の44%が5年以内にすべてのお金を使い果たしてしまうそうです。
幾つか使い道はあるとは思いますが、原因はこんなところでしょう。
①に関しては真っ先に思いつくでしょう。お金持ち用の遊びは数多くあるし、テレビで見て一度はあこがれていた家や車を現実に購入すれば、一気にお金が減ります。
しかし、高級品などはただ買えばいいというわけではないでしょう。
高級な家を買って家具がボロボロの安物というわけにもいきません。家具はお金持ちの人がお金持ちを招いたとき恥ずかしくないようなものを買う必要があるので、変なものを買うと「こいつ何もわかってない成金じゃん」と思われ馬鹿にされかねません。
実際はお金持ちでない友人に見てもらうことになると思うので、高級な家具を見てもわからないとは思います。せいぜいデカいTVがうらやましいとか言われる位ではないでしょうか。
②についていえば宝くじに当たると急に遠い親戚から連絡が来るとよく言われます。友人についても、いきなり大金をよこせとは言わないかもしれませんが、「あぶく銭なんだから飯をおごるくらい当然」くらいは思うでしょう。
お金持がないころはたかられても「お金がないから」で済んでいたし、お金がないことは周囲もわかっているので、しつこく言わることはなかったと思います。
しかし、「お金持ってるでしょ、ちょっと位いいじゃん」といわれると、言われなれていない人はなかなか断りにくいのではないのでしょうか。
そこで「何でおごらなきゃいけないんだ!」と突っぱねると相手も不機嫌になるでしょうし、もしかしたら「大金を手に入れてあいつは変わった」とか言われかねません。
基本的に「友人の年収の平均が自分の年収」といわれるように、友人も大体同じくらいのお金しかもっていないので、お金持ちの気持ちはわかりません。
仮にそこで友人に奢ったとしたら、それからも奢り続けなければなりません。
そして、奢り続けたとして友人に対する態度は変わらないでしょうか。
「いつもおごってやってる」とか「なんで自分が」とか思ったり、態度が偉そうになったりしないでしょうか。
そしてそんな態度は相手にも伝わります。そして相手も奢ってもらっている手前、あなたの態度が変化しても指摘できないでしょう。
そうしているうちに、本当に「あいつは大金を手に入れて変わった」になるのではないでしょうか。
そして③ですが、ここが結構面白い議論のし所だと思います。
基本的にみんな仕事をつらいと思っています。
それは当たり前で、仕事とは他人のやりたがらないことを代わりにやってお金をもらうことです。それはプロゲーマーでも風俗嬢でも同じです。
なのでお金を手に入れるとおそらく、「金があるのに何でつらい仕事なんか」と思う人もいるでしょう。
しかし、それなりに使命感を持ってやっているからこそ辛いのであって、急に投げ出して自由になったところで、「じゃあ何する」になります。
そうすると、今まで苦労して仕事をしてきた分「仕事をしてもらおう」と思って消費する側に回るのではないでしょうか。
ここら辺はベーシックインカムの議論にもつながってくると思います。
要するにお金を持ったことのない人はお金の使い方がわからないということです。
以前ZOZOの前澤さんが「お金は使うと増える」とおっしゃっていましたし、それは本当なのでしょう。しかし「ちゃんと使えば」という条件がいることなのです。
例えキャバクラで何百万使って豪遊したところで「いい勉強になった」以上に得るものがあるとは思えません。
しかし、リスクの低い株式投資をしていれは何十年か先に複利の力で何倍にもなるのは決して夢ではありません。
そもそも宝くじ自体が「愚者の税金」と呼ばれていて、要は「馬鹿だから騙されてももしょうがない」という根拠のもと存在しています。
「お金をもらった罰」としての所得税や「お金を使った罰」としての消費税より、文句を言われずにお金を集められます。
「寄付のつもりで買っている」という人もいるかもしれませんが、それならば国に直接寄付したし、税金を多めに払ったりすればいいのではないでしょうか。
お金持ちの人と話していて思うのは、自分が勉強しなければわからなかったことを最初から知っているんだなぁということです。
人に何かを頼むのがうまく、もらった時にはきちんと感謝をし、いやなことはきちんと断る。お金持ちはケチと言われますが、自分のルールを守って、使いどころ以外では決して使わないということを、親から受け継いでいるのではないでしょうか。
宝くじに当たるのはいきなりヘリコプターで山のてっぺんにいきなり連れてこられるようなものだといいます。体力も技術もない人が、山の上で暮らせるわけもなく、一番下に降りたとしても、2度と頂上に行くことはできないでしょう。
しかし、頂上の景色だけは知っています。2度と登れない山の頂上の景色を一生忘れられずに過ごすのでしょうか。
私はまずは「お金は使ったら減る」というところからスタートしています。元々ニートだったのであまり使うことはなかったのですが、収入が安定してきたたり、周りの人に合わせるために少しづつ使う量が増えていきました。
しかし、よく理解せずに買い物をすれば身につかず後で後悔することになります。
バーベルなどは買って1ミリも後悔していませんが、押し入れには使いどころのなかった便利グッズがいっぱい増えました。やはり、両学長がおっしゃっている
貯める→収入を増やす→投資
の順番ですね。言い換えると
お金を使わない→時間を無駄にしない→資産を守る
になるでしょうか。
AIは現在ただのプログラムに過ぎず、ビジネス上の宣伝文句に過ぎないというお話をしましたが、
では、人間のような本物のAIは実現可能なのでしょうか。
そもそも、人工知能という考え方は数学と哲学の愛の子として生まれました。
哲学とは物事をとことんまで突き詰めていく学問です。前提そのものに対して疑問を投げかけます。
世の中がどうなっているのかを考えると、どうしてもそれを観察している人間の視点を考えなければなりません。においや触覚、光が情報として脳で処理され、世界を認識しています。
脳がなければ世界がないといえるでしょう。
我々はウルトラマンが巨大化したことを認識できます。物理学的には質量保存の法則により、巨大化などありえないにもかかわらずです。
それは脳が数学的情報処理によって成り立っているからです。
なので、脳内では現実よりも緩い縛りの下で現実を認識していると言えますし、現実はゲームや小説の一部と考えることもできます。
ですから、神様が存在するとしたら数学的縛りのもとに存在せねばならないし、数学を極めれば人間を0から作り出すことも可能なように思えます。
しかし、理論がもしあったとしても、どうやって現実に落とし込むかが問題です。実際に動いたりしゃべったりしなければ机上の空論に過ぎません。
そこで登場したのがコンピュータでした。
コンピュータを使えば自動で計算ができるので、人間の思考を実現できるのではないかと考えました。
しかし、コンピュータの性能が上がり、新しい考え方が登場するたびにブームになったり廃れたりを繰り返してきました。
現在のディープラーニングやAIもその一つなので、ブームはおそらく去るでしょう。
ブームが去ると今度は「やってるとダサい」になるので、また冬の時代が来ると思います。
なぜディープラーニングが人工知能を実現できないかといえば、つまり、「人間とは何か」がわかっていないからです。
今でも数学で証明されていない問題はあります。
自分たちが何者かもわからずに自分を作り出すことはできません。というか意味がありません。
人間には生殖能力があるので、人間を生み出したければ人間の子供を産めばよいだけです。
人間が何者でどういう動作をし、どう制御できるのかを完璧に理解して生み出したものが人工知能なのです。
しかし、確かに学問的な成果、人類の到達点としての人工知能としてはそれが正しいのですが、それが何の役に立つのかという問題もあります。
チューリングテストというテストがあります。
人工知能の父といわれるアラン・チューリングが考えたテストで『イミテーションゲーム』という映画を観た方ならご存じだと思いますが、隣の部屋の人にコンピュータで自動でメールする場合と、人間がメールする場合で、両者を隣の部屋にいる人が区別できなければ人工知能として完成であるという考え方です。
このテストはもうすでにクリアされていて、14歳の少年と区別できない人工知能は完成しています。
しかし、もちろんそれで人工知能が完成したとは言えません。
実はこれはアラン・チューリングの皮肉に過ぎなかったのです。
彼はコミュニケーション障害があり、人間関係そのものに懐疑的だったようです。チューリングテストとは、「実は人間はコンピュータでもできそうなことをやっているだけで、いくらでも入れ替え可能である。」というチューリングのメッセージでした。
これは現代において、非常に示唆的なメッセージだと思います。
『ホモ・デウス』という本に書いてありますが、今にSiriやgoogleが我々以上に我々に詳しくなり、我々の行動を決定できる日が来ます。
朝寝坊しそうになったら起こしてくれて、カギを忘れたら注意してくれる。恋人との相性も、占い師よりはるかに高い精度で教えてくれるでしょう。
向いている仕事や、食べるべき食事など本人が決めるより早く正確で信頼できるようになります。
「自分のことは自分で決めたい」という人もいるでしょうが、人の管理能力は有限であるのに現代は情報にあふれています。
晩御飯を何にするか迷っていたら、見る予定だったTV番組のことを忘れてしまったりもするでしょう。
そもそも自分のことを自分で決めている人などいるのでしょうか。
かつて結婚相手などは、村で近所の人がそれなりの人を連れてきたりして、別に自分で決めていませんでした。
その後、自由に相手が選べることは素晴らしいということで、自由恋愛ができるようになったものの、結局は職場やお見合いの狭い世界で結婚する人がほとんどで、人類すべてから選んでいるわけではありませんでした。
現在はネットのつながりがあるので、ある程度広い範囲から選べるのかもしれませんが、自由になると今度は積極的に行動しなかった人は完全にあぶれてしまうようになりました。
「こんなことなら誰かが決めてくれたほうが楽だった」と言い出す人がいそうです。
それに完璧に答えるのがSiriやgoogleです。
自分の人生に責任を持てるのは自分しかいません。
我々が今後すべきなのは、「スマホが嫌いだから使わない!」と言って自らの選択肢を狭めるのではなく、かといって決断を誰かに丸投げするのでもなく、興味のない分野はSiriやgoogleの助言を聞き、自分の本当の趣味ややりがいを感じることにリソースを傾けることでしょう。
自分の意志、生き方、ゴールを明確に持っているかどうかが、今後の格差社会の本質になるかのです。
「飲むだけで痩せられる」、「食べるだけで痩せられる」はかなりのパワーワードらしく、ダイエット関係のCMでは必ず見かけますね。
中身としては、「脂肪が燃焼する」、「腹持ちがよい」、「カロリーが低い」などでしょうか。
しかし、一つ一つ突っ込むならば、「脂肪燃焼」は脂肪を消費してエネルギー源にしたとしても、摂取したものからまた脂肪を作るため結局は
(痩せる量) = ( 消費カロリー ) - ( 摂取カロリー )
なのです。
よって、「脂肪燃焼」は、脂肪がひとりでに消えてなくなっていくようにイメージさせるための単なる宣伝文句でしょう。
「腹持ち」と「低カロリー」はある程度当たっているように思います。ポテトチップスなどはいくら食べても腹が膨らまないのに、大量に食べてしまえるうえ、油と炭水化物で高カロリーで「世界一太る食べ物」だそうです。
しかし、腹持ちの良いといわれる白米も炭水化物の塊です。栄養は少なく、かつてかっけが日本人の国民病だったのは白米が好きすぎたからだといわれています。
「低カロリー」で栄養がある豆腐も味気なく、「豆腐だけダイエット」など長続きする食事スタイルとは思えません。豆腐以外を食べ始めた瞬間リバウンドです。
食べるだけで痩せられるというのは怠惰、思考停止のの結果であって、本気で生活スタイルを変えて、健康で美しい体になることとは違うように思います。
しかし、本当に摂取するだけで痩せられる食品はないのかというと、実は存在します。
プロテイン
です。
プロテインは白米などと違って栄養の塊であり、意外と食べごたえ(というか飲みごたえ)があります。
それに、水筒に入れておけばすぐに飲めるので、仕事中にちびちび飲んでいるだけでおなかは減りません。低GIだからと言って仕事中にご飯やパンを少しづつかじるというのは難しいでしょう。
人体に必要な栄養は、基本的にはタンパク質、ビタミン、ミネラルです。
炭水化物とは基本的に砂糖で、白米などもでんぷんが分解すれば糖になります。人類が長年追い求めてきた「糖」は、もはや遺伝子に欲求が組み込まれており、抗いがたいものがあります。
脂肪はつまるところ油で、1g当たり9Kcalと燃焼効率が良いので山での遭難時や、南極を横断する場合は食料効率はかなりいいと思います。
しかし、日本人のほぼ全員が原始人や冒険家ではありません。栄養のない炭水化物や油を摂取するのは快楽や美食のためであって、健康や美容とはあまり関係がありません。
もちろん甘いお菓子を食べて幸せに浸ったり、脂ののった刺身に感動を覚えるのは、人生に必要な楽しみだとも思います。
しかし、日々できるだけ多くの砂糖と油を摂取することが、幸福を増大させることとはとても思えません。一口、腹八分目で十分幸せになれるのではないでしょうか。
私自身、一人暮らしで常に外食をしていた時期がありました。毎日とんかつ、カレー、ハンバーガーなど、子供のころにあこがれていた食生活でした。
しかし、常におなかが張っている感覚で、あんなに好きだったものがそれほどおいしいとは感じられなくなっていました。
実家暮らしになり食生活は改善したかに見えましたが、夜食べ過ぎる癖は抜けず、ご飯をおかわりするか、夜中にお菓子を食べるかで、体重は増える一方でした。
体重も大学時代は65kgだったのが77kgまで増えてしまいました。
BMIは日本では肥満である28を超えました。
そこで、一食分抜いたり、甘い紅茶をちびちび飲んで血糖値を維持したりしてみました。
しかし、仮に前日ドカ食いして「次の日はもう食べない」と決意したところで、なぜか次の日にはむしろいつも以上にお腹が減ります。しかし、絶食をあきらめて食べたところでやはり胃が受け付けず、少しでおなか一杯になってしまいます。
それでも惰性で食べ、食べ終わってみるとお腹がすごくいっぱいです。
甘い飲み物をちびちび飲むというやり方も、忙しいエンジニアなどたまにやっているらしいのですが、やはり栄養がないので、よほど面白い仕事を集中してやっていないと、長続きしません。
そこで頭に浮かんだのは昔TVでよく見かけた(多分今もある)マイクロダイエットでした。
マイクロダイエットは一食分をジュースいっぱいに置き換えるというダイエットですが、ジュース一杯で栄養が取れるのでお腹がすかないというものでしたが、
マイクロダイエットは高額です。基本的にダイエットは儲かるし、儲けるためにやるので、どうしてもサービスや食品が高額になってしまいます。
しかし、マイクロダイエットの中身も基本的にはプロテインです。
そこに美容成分や何やらを入れて高級に魅せているだけで、炭水化物と脂肪を減らした低カロリー食品を売っているだけです。
しかし、ボディービルダーやスポーツ選手はプロテインを日常的に飲んでおり、かなり価格競争が進んでいます。
私の飲んでいるプロテインはアマゾン定期便でで50食分3362円(一食66円)です。牛乳の値段と合わせても100円程度なので、一食100円で済むのなら節約にもなります。
実際にやってみる劇的に効果があり、今までのダイエットで文句なく1番でした。
体重も半年で77kg→70kgになり、やめてもリバウンドもなく2年たった現在67kgになっています。
筋トレもしているので、長期で無理せず健康的な体型にしたいと思っています。
今現在はまた食事制限を始めていますが、食事制限といっても昼をプロテインにして、感触を控え、普通の夕食をとる程度です。
おそらく、お菓子の食べ過ぎや、炭水化物が大好きなど、偏食で栄養に偏りのある人に効果が大きいと思います(肥満の原因のほとんどがこれだと思いますが・・・)
劇的には痩せませんが、安定して健康的な体型を維持したい方には、プロテインを補助として飲むのは、筋トレをしていなくても効果的だと思います。
30KG*10REP
45KG*8REP
55KG*6REP
65KG*3REP
75KG*3REP MAX換算:81KG
14REP-逆手16REP
15REP
今日は眠かったせいか重く感じました。75KG*3REPはちょっと無理気味。前回より少し楽かなという程度。ただし、体重が68.0から下がらなかったのが67.4まで下がりました。
体重が下がるとMAXも下がるはずなのでそのせいかも。
体重も記録残そうかな。。。
腰に負担かけたつもりが、余り痛くないのはベルトをちゃんと締めたからでしょうか。
次回は75KG*2REPに抑えてパンプセットを頑張ります。バーベル1セットとダンベル1セット位で。
今日は5時ぐらいまで寝られなかったのでちゃんと寝ます。
2013年オックスフォード大学のマイケル・オズボーン教授の論文によると、10~20年で47%の仕事が機械による自動化で失われると予測しています。
実は海外に受注できる仕事も50%程度あるそうですがこの二つがどれだけかぶっているかは不明です。もしかしたら先進国の人間からはすべての仕事が失われるのかもしれません。
まず、以前このブログで書いたようにAIとは本質的にはプログラムによる自動化のことなのでディープラーニングを使っているかどうかは本質的には関係ないということでした。
人類は有史以前から自分たちの作業を単純化、効率化、仕組み化してきました。火の起こし方や獣の狩り方、食べられる植物の集め方など、大昔は何代にもわたって受け継がれていたのでしょう。
彼らの時間の感覚は非常に遅く、ちょっとした改革を起こすのにも世代を幾つか要したはずです。
それこそ、狩猟採集から農耕へ移行するのにも何万年もかかっているのでしょう。
しかし、工夫が工夫を呼び、効率化がさらなる効率化を呼びました。
ITバブルからケータイの普及、ディープラーニング。これらはここ20年程の出来事です。
スティーブ・ジョブスが生前、数少ないビデオインタビューで「コンピュータによる技術革新の100年が今始まったばかりだ。」と言っていました。
人間の積み上げられるシステムはまだまだ残っているようです。身近にある効率化できる仕事はいくつもあるように思います。
私が最初に思いつくのはコンビニです。
歓迎してもいないのに必ず「いらっしゃいませ」といい、感謝もしていないのに「ありがとうございました」という。実作業はレジ打ちと品出しですが、会計処理は単純なので子供でもできます。品出しは必要な気もしますが、常時店にいる必要はないでしょう。工夫次第では品出しも必要ないように思います。
確かに気持ちよく挨拶されればうれしくなりますし、美男美女がいればそれを目当てに行く人もいるでしょう。
しかし、どんな接客をしようと、コンビニの売り上げが大幅に変わることはありません。結局費用対効果を考えて近くの店か安い店に行くでしょう。
コンビニの自動化の議論で必ず「接客がいないと寂しい」という話になりますが、そんな人達も結局は安い店に行くのではないでしょうか。
自動化した店のほうが店員を雇わなくていい分、価格は抑えられるからです。例えそれで自分の子供の雇用を奪うことになっても。
寂しいという人は店内のスペースで客同士コミュニケーションをとればいいでしょう。
もっと言うと店員が必死に接客をしようと、店員に何か有用なスキルが身につくわけでもありません。
人生に無駄はありませんが、それを評価してくれるのは他人です。
コンビニ店員のキャリアを高く評価する企業や顧客がいるとは思えません。
コンビニ店員の雇用を生み出すより、若者にスキルの身に着けられる職場を提供したり、トレーニングの機会を与えるほうが社会にとって大切なのではないでしょうか。
店の自動化の試みは以前からありました。なので、技術的にはすぐにでもできますし、現にキヨスクや大手スーパーではやっています。技術革新などなくてもできることはいくらでもあります。
電子書籍などもそうで、私は10年ほど前にKindleを買いましたが、最初に見たときは「なんじゃこれ」と思いました。画面が子供のころに遊んだゲームボーイと同じだったからです。
ゲームボーイとはNintendoのケータイゲーム機で、当時最初に出たときは白黒でしたが、夢中になって遊びました。
画面の解像度などは違いますが、基本的に中身は大差ないでしょう。
つまり、電子書籍とは技術革新の結果生まれたものではなく、持ち運びやすさ、収納性、管理のしやすさなど、モノがあふれた現在の社会状況に必要とされた結果普及しただけだということです。
なので、なくなる仕事を考える場合、AIがどうとかはひとまず置いておいてもいいのかもしれません。
身近にある単純な仕事をとことんまで効率化し、究極的には自分自身不要になるところまで仕組み化をやってみるべきでしょう。
我々は現在狩りにもいかないし、木の実を集めなくても飢え死にしませんが、昔はよかったとを嘆く人はいません。
しかし、狩りに行きたければ行ってもいいし、獲物がいる限り猟師がこの世からなくなることもありません。
状況はあまり変わっていませんが、スピードが速く、戸惑っているだけなのです。
この間ふと疑問に思いました。「ペットショップで売れ残っと動物はどうなるのだろう」
私がなぜ疑問に思ったのかというと、普通の経済動物には看取りの場面が必ずあるからです。
例えば、『百姓貴族』という漫画があって、農家の生活をテーマにしたギャグエッセイ漫画ですが、内容は農家の生活がいかに非常識かをコメディとして描いたもので、その非日常感や、動物や自然との戯れが面白く、私も大好きな漫画なのですが、ギャグのふりをしてかなりまじめな部分も描いており、その一つが動物を殺処分する話です。
家畜は利益を生み出さなくなった時点で処分せねばならず、それは経済動物として生まれた時点でしょうがないことで、かわいそうだからというだけでペットとして飼っていたら農家がつぶれてしまいます。
農家の人ももちろん殺したくはないし、殺処分が問題というのなら、それを消費する社会全体の問題としてとらえねばなりません。
ですので、農家の方もできるだけ生かそうとするし、苦しまずに何とかしようとしたり、別れの瞬間にもやもやした感じになるのが描かれています。
荒川氏はそこに納得出来なかったようで、その経験がヒット作『鋼の錬金術師』に生かされています。主人公の錬金術師の兄弟は幼いころに母親を亡くし、その寂しさから母親の復活という、禁じられている錬金術を行おうとします。しかし、完璧なはずの術が失敗し、代償に自分たちの体を奪われることになります。
これは荒川氏の「命は特別である」という考えに基づいていると考えられます。
私は最終回で命に対する何らかの答えを示すものと考えていましたが、「わかるはずのないもの」というのが答えだったように思いました。
私の思い込みかもしれませんが、農家の方には命に対するリスペクトがあるように思います。家族経営している場合自分の子供に「モノだから壊れたら捨てるだけ」と教えるとも思えませんし、アメリカのように狭い柵の中にぎゅうぎゅう詰めで育てたり、フォアグラのように不健康に育てて太らせる文化も元々ありません。
ではペットショップの場合どうでしょうか。
経済動物の場合殺す場面は必ずあるはずです。けがや病気にもなるし、大きくなった犬猫は需要は低いでしょう。売れないからといって飼い続けたら餌代がかかるだけですし、よそにあげていたら販売価格自体下がってしまいます。
このブログで書いた曲がったきゅうりの話です。
まっすぐなきゅうりを食べるためには曲がったきゅうりを捨てなければいけません。
2013年に動物愛護法が改正されてペットショップは動物を保健所で殺処分できなくなりました。もちろんそれ以前は何の罪にも問われなかったということですが。
しかし、2014年にブリーダーが80匹の犬を河原に遺棄する事件が発生しました。河原に遺棄することで事件が明るみに出ましたが、もし焼却なり、埋葬なりしていた場合誰にも気づかれません。
実際「引取り屋」という職業は存在し、1匹1万円程度で引取り、採光も換気も十分されていない狭い糞だらけのコンテナの中に押し込めて、亡くなれば処分するということを繰り返しています。
しかし、現在の法律では罪に問うことはできません。
欧米ではペットショップ自体を禁止にしている国が多く、ペットショップとは餌や用品を売っている店のことを言うそうです。その中でも1番厳しいのがイギリスで、動物愛護に関する法律は70を超えるそうです。
ペットが売れるたびに補充するための動物を生産し、売れ残りや病気の動物を処分します。かわいいと思って買ったペットの後ろに何匹もの犬猫の死体があることを意識しましょう。
以前TVで食糧問題がテーマの番組をやっていた時、「店にまっすぐなきゅうりしかなのは他を捨てているからで、もったいない」という話をしていました。
確かに一部は加工食品に回しているようですが、同じサイズの野菜を作ることなど不可能なはずなのに店頭には同じサイズしか並んでいないのは不自然な気もします。
「捨てるのもったいない。曲がってても買う。」という人も多いでしょう。
では、我々は店頭にまっすぐなきゅうりと曲がったきゅうりが置いてあった場合どちらを買うのでしょうか。
おそらくほとんどの人がまっすぐなきゅうりを買うでしょう。
牛乳などでも奥のほうから賞味期限が一番長いものを取り出して買う人がいるのに、同じように並んでいるのに曲がっているものを買うのは何か損をしたような気がしませんか?
1円でも安いものを買いたい、損をしたくないといった心理ができるだけよいものを選ぼうとするのかもしれませんね。
なのでもったいないと言っている人の本音は「曲がっているものでも買うよ、ただし安ければね。」ということでしょう。
しかし、売る側の立場からすれば、1個当たりの値段はできるだけ高くして売りたいはず。『国富論』にも書いてありますが、人間が1日に食べられる量には限界があるので、大量生産してもたくさん買ってくれるわけもなく、売れ残ってしまいます。なので、できるだけ単価は上げておきたいのです。
ですが、ヨーロッパの農家の収入は9割が税金だそうです。農業大国のイメージがあるアメリカで6割、日本の場合は2割です。
これを、国に頼らず農家の自助努力とそれを支える消費者に支えられて日本の農家が成り立っているとみるべきなのか、国の基盤をかなり不安定なシステムに負担をかけながら成立しているとみるべきなのかはわかりませんが、今回は別の話。
経済学はいくつかの単純な原則から始まっています。
等々ですが、1はリンゴ2個より1個のほうが安いのでわかりやすいですね。2はよく空気でたとえられますが、無いと死ぬけどなくて困ることがないので無料ということですね。3はちょっとややこしいですが、どのお店が一番安いかはみんな知っている。ということです。
キュウリで言うと、1では曲がっていてもデカくてお得と考える人がいたとしても、変なきゅうりということで価格が安くなってしまうので廃棄されてしまう。
人間も一緒で、例えば恋人がかっこ悪い服装でデートに来る場合、自分がその人を本当に好きだとしても、周りの人にばかにされたり低く見られたりしてしまうので関係を考え直さざるを得ないなど。
2では実際はきゅうりは腐るほどあるので、例えば1個だけ残して100個捨てたりすれば、その1個に100個分のコストを乗っけられるので1個しか食べない人にも実質100個分売ることができるということですね。
なので、昔に比べて格段に生産性が上がっているのに昔と同じもののはずのきゅりの値段が高くなっているのは単に数字上のものではなく、「品質」が上がっていると解釈できます。
なので、もしAmazonが大量生産で1個1円のキュウリとかを作ってドローンで無料配達してきゅうり農家をすべてつぶすことも将来的には可能なのかもしれません。
3が一番非現実的に見えるので、経済学の不完全性の話でよく出てきます。普通に考えて日本全国で値段も違って当たり前、実質近所のスーパーしか行けないし、すべての広告に目を通すのも無理な気もします。
しかし、ネット通販のおかげで、最安値を瞬時に判断して購入することができるようになってきています。
さすがにきゅうりは無理じゃないかと思われるかもしれませんが、さっきの話のように、Amazonが現地の土地を買い、野菜工場で自動生産し、主婦がぽちっと押すとドローンがきゅうりをもいで数十分で持ってきてくれるとなると、新鮮なきゅうりが数円で手に入るのに、スーパーへ行く意味がありません。
農家の人はもとより、運んでくれる運転手の人から農協、卸売市場、レジのお姉さんや品出しのおじさんまで一気に失業かもしれませんね。
今現在、テクノロジーの発達が資本主義に拍車をかけています。資本主義とはつまり ”お金”主義。お金があれば何でもできると信じることです。もちろん、今現在、永遠の命を望んでもかなわぬ夢ですし、ビル・ゲイツが明日金星に行こうと思ってNASAに電話しても「明日はやめておこう」と言われるでしょう。
しかし、iPS細胞が本格的に実用化すれば、内臓を全て入れ替えて永遠に生きることは可能かもしれませんし、ビル・ゲイツが自分の資産だけでなく、資金調達して事業として金星行きを計画した場合、余生を金星の周回軌道で過ごすことは可能かもしれません。
テクノロジーの発達が、お金でできる領域をどんどん増やしているのです。
しかし、どんなにテクノロジーが発達しても、資本主義というシステムの上で運用されるので、「お金がないと何もできない」という状況にもなりかねませんし、「これからの未来はどうなるんだろう」という不安も付きまとうでしょう。
なので、経済学の一形態である資本主義を理解するにはやはり経済学を勉強しないといけないということですね。
30KG*10REP
45KG*8REP
55KG*6REP
65KG*3REP
75KG*2REP MAX換算:81KG
14REP-逆手16REP
15REP
MAX換算値は変わらず。しかしふつう重量を上げると換算値は下がるはずなのに変わらずでした。こういう場合は実質成長しているときですね。
重量も軽く感じたし、次回は75KGにも少し慣れると思うので75KG*4REPはいくかも。
ダンベルで追い込みしようとしましたが、やはり肩の痛みを感じたので止めました。成長もしているので今は我慢の時かな。
いろんな有名人や評論家の人がホリエモンを批判していますね。彼らの言うことはもっともで、年金は破綻しなくとも、若い世代はもらえる分が少ないのに年金を徴収されている人がほとんどなので、税金でないのなら返せといえば返さなければいけないような気はします。
しかし、ホリエモンが言いたいのはそもそも国に頼らず自分で稼げということでしょう。つまり、「泥棒は金返せ」と言っている人と、「泥棒が金返すわけねぇ」と言っている人の対立に思えます。
どちらが正しいのかというと、正しさで言いえば金を返せと言っている人でしょうか。正当なプロセスを経て自分の意見を言い、行動を起こしている人が間違いなわけがありません。やはり、泥棒は金を返すべきです。
ただ、この議論の根底にある問題は政府への甘えだと思います。
国民が「だまされた。ひどいよ。」と言って評論家も正当な手続きを経て法律を変えるべきと促していますが、言い方は悪いのですが子供の駄々をあやして仕事している気になっているようにも若干見えます。
現実問題、高齢者のほうが多い現状、選挙で現行の制度を覆すのは不可能でしょう。年金制度以前に、格差の広がり、雇用の喪失、引退という概念のあいまい化の末、年金と生活保護を一体化する可能性は私は高いと考えています。
つまり、結局自分の身は自分で守るという常識に落ち着く議論ではないでしょうか。