自動運転の最終形態(車は誰のものか)

前回、自動運転が実現すれば車をスマホで呼ぶ課金制になると書きました。

ですがそこに至るまでには紆余曲折あるでしょう。

自動運転は安全か

まず自動運転の場合の安全性ですが、圧倒的に事故を起こさなくなるでしょう。なぜならプログラムは人間と違いミスをしません。毎回同じように走ります。人間ならぎりぎりよけられるような場合には反応が遅れるかもしれませんが、自動運転車の方から突っ込んでいくことはまずありません。アクセルとブレーキを踏み間違えることもありませんし、酔っ払い運転もしません。二日酔いも夜更かしもしませんし、よそ見や仕事の失敗で落ち込んだり、恋人と別れてショックを受けることもないでしょう。

基本的に人間でも普通に走っていれば事故は起こしません。事故が起きるのは何かイレギュラーがあった場合に限られますが、コンピュータにはそのイレギュラーが基本的にないのです。

もちろん0ではありませんが、何らかの例外が起こった場合はプログラムを修正し次回に生かすことで適切なフィードバックループが回ります。

もし人間の場合であれば何らかのペナルティ(罰金、免停)や教育(講習会)が行われますが、あまり役には立たないうえにまだ事故を起こしてない人には効果があまりありません。自動運転の場合は全ての車両で同時にプログラムの更新が行われ、同じ事故は起こさなくなるでしょう。

では、仮に自動運転車と普通の自動車が同時に走っていたらどのような社会状況になるでしょうか。

普通の自動車は嫌われる

恐らく事故を起こす車はほとんど普通の自動車です。TVのコメンテータは事故が起こる度に「自動運転車に乗らないからこんな事故になる」というでしょう。普通の車に乗っている人はひどく非難される時代になります。

今までは自宅に高級車が置いてあるのが自慢だったのが、周りから白い目で見られるようになるでしょう。恐らく飲酒運転に近い扱いを受けるのではないでしょうか。

かつて酒を飲んで車を運転するのはそれほど悪いことではありませんでした。今では考えられませんが、『刑事貴族』という90年代のドラマで刑事がクラブで酒を飲んでいるときに事件が発生し、急いで現場に車で急行という場面が普通にありました。

TVで飲酒運転による事故があってかなり騒がれてから飲酒運転が厳罰化し、だいぶ状況が変わりましたが、飲酒運転を厳罰化したからといって自動車事故による死者数が減ったかどうかはわかりません。それよりも免許証の取得を厳しくした方がよほど有効的だったと思うのですが。

というわけで、自動運転が普及し出したら普通の自動車の肩身がかなり狭くなるでしょうし、保険料も高くなるでしょう。というより自動運転の場合自分で所有していないので保険料はオーナーが払うことになるでしょう。

自動運転車のオーナーとは

これは自動運転車だけに限ったことではありませんが、「所有権の分割化」が今度進んでいくことになるでしょう。

自動運転に限って話をすると、一番イメージしやすいのがタクシー会社がいらなくなるということです。運転手もおらず、充電も自動、メンテナンスも自動的に車が修理工場に入って行き、内部のプログラムも自社内では行いません。すべてが外注になります。社員が何か責任を持って行うことは何もありません。

つまり、必要なのはお金だけになります。ということは投資家がオーナーとして保険に入りリスクを負担する、不動産に近い形になり、オーナーが利益を直接吸い上げられるようになるのです。

私が面白いと思うのはここでもやはり「犯人捜しの問題」は発生するだろうと考えられることです。自動運転といえど事故を起こすことは必ずあります。しかし低いコストと人間より少ない事故率により、やめる選択肢はありませんし必要もありません。そういった時自動運転による事故を社会はどう受け入れるのかにすごく興味があります。

結論:自動運転の本質は自動車の社会的費用に社会が耐えられなくなっているということ

かつて経済学者の宇沢弘文先生が「自動車の社会的費用」という本を書かれました。社会的費用とは環境問題や公害など、単なる物の売り買いでの当人同士の損得を超えたところで社会にかかっている迷惑のことですが、かつて公害が社会的に問題になり、自動車事故による死者数も1万人を超えていましたが、それにも関わらず車に乗り続けた現代人が、軽自動車に乗り、あまりスピードを出さず、今度は運転自体がめんどくさいといっています。

宇沢弘文先生は「自動車は危ないからみんなで乗るのをやめよう」と言っていましたが、当時誰も聞く耳を持ちませんでした。しかし、現在それが「面倒くさい」「お金もったいない」といった理由で実現しようとしているように思います。自動運転にして課金制にし、必要な費用だけ最低限支払うようにすれば、かなり自動車にかかるコストは低くなりますが、果たしてどちらの時代が人にとって幸せだったのでしょうか。

自動運転の最終形態

自動運転が実現しそうになってからずいぶん経ちますが、あまり進展はないようですね。

Googleとかもちょっとしばらくは様子見なのかなといった感じなので、あと10~20年はかかるのかもしれません。

ただ、実現した場合の経済効果は計り知れないので、自動運転が実現するとどうなるのかを考えたいと思います。

自動車がかつての「馬」になる

一番手っ取り早い説明がこれですね。「全部自動化は無理」とか言われますが、現在馬は車道を走っていません。

確かに馬は扱いが難しいのかもしれませんが、舗装してない道路も移動できるし、 軽車両扱いなので自転車と同じように歩道を走れるはずです。 全くメリットがないわけではありません。昔の人からすると「馬はどこへ行った」と思うかもしれませんね。

なので、自動運転が実現したら競馬場で馬が走れるように、自分で運転するときはサーキットに行くことになるでしょう。

自分で運転しないなんてつまらない?

これもよく言われることですが、自分で運転できないとつまらないと考える人がいますが、では車を運転するときにみんなそんなに楽しんで運転しているのでしょうか。日本の道路は信号が多く混んでいるのでスピードもそんなに出せません。というか高速道路ほどスピードを出すわけにもいかずあまり気持ちよくは走れていないと思います。

というかそんなに車で走るのが好きならほとんどの人がマニュアルシフトのスポーツカーに乗っていると思うのですが、ほとんどの人がオートマで走行性能もそれほど高くない車に乗っていますし、近年売れているのは燃費のいいプリウスや軽自動車だったりします。

昔は例えガソリンをばらまくことような燃費の車でも高出力のエンジンを搭載していれば魅力的でしたが、最近は誰もそんな車に乗りません。

特に若者の車離れが叫ばれている昨今、そもそも車にお金や労力を駆けたくない人は増えてきているように思います。

それでもたまにはドライブに行くという人もいるとは思いますが、逆に言えばそんなときでなければ車を楽しく乗ることはないとも言えます。

毎朝眠い時に通勤ラッシュの中を走る (それか近所への買い物へ行く) のがメインの使い方で、実際の走行距離は1年1万km走るとすると平均1日27kmです。

なので、現在車の運転は単なる作業になっていて、楽しくもないこの時間を有効活用できれば生産性はかなり上がると考えられます。

自動運転中は何をするのか

座席に座っていて運転しないのなら、PCやスマホで何かするように思いますが、自動運転専用の車両が開発されるので、今までとは全く違った移動時間の使い方になるでしょう。

ここら辺はトヨタが少しコンセプトを発表していましたが、バーや飲食店、映画館やゲームセンターなど多様なエンターテインメント空間も実装可能ですし、もちろん完全個室で集中して仕事をする、あるいはベッドになっていて寝れる。ということも考えられます。

ただ、一人で空間を占有したい場合高くなると思うので(おそらく課金制になる)通勤で使う場合はバスに近い相乗りの車両がメインになるのではないでしょうか。

ただ、車内でCMを観たり、時間帯を変えるなどして料金を下げる(おそらく無料)にすることは可能になると思います。自動運転の場合、どれくらいの稼働率なのかが正確に出るので、逆にオーナーからすれば稼働率は100%にできるだけ近い方がいいので、ただでも乗ってもらいたいとは思うはずです。

タクシーとバスの中間の車両がメイン

先ほども述べたように、自動運転の場合課金制のシステムになると考えられます。呼んだら来るのに自分で購入して自宅の駐車場に置いておくメリットがないからです。

それに、自動運転は中央集権的に交通制御ができるというメリットもあります。道路が混んでいるから別のルートを通る、あるいはいつどこでどの時間帯に自動車が集中して必要になってくるか予測して配置させておくなど、自動車資源の最適化が可能です。

現在駐車場にはたくさんの車が止まっています。当たり前のことのように思いますが、駐車場に止まっている車は稼働していません。駐車しておいて自慢するという機能はあるのかもしれませんが、何百万もする資産を一日の大半使わずに遊ばせておくのはよくよく考えるとかなりもったいないことです。自動運転の場合は普段は道路を走り回っていて必要な時に呼ぶということが可能なので、自動車の稼働率がかなり上がります。

1日の走行距離が27kmとすると、平均時速50数kmで走るとして1日の稼働時間は30分程度です。稼働率にするとわずか2.1%です。

稼働率が2%しかない機械というのはかなり無駄に思えます。仮に自動運転で稼働率が80%まで上がったとすると自動車の数を1/40に減らせるということですね。まぁ減らせるのは台数だけではありませんが・・・

車種が減る

実際先ほど述べたような色々な車が必要かどうかは確かに疑問があります。移動の目的はあくまで移動です。目的地に着きさえすればいいのであって、到着後もしばらくお酒や映画を楽しんだりするとは思えません。トヨタは移動時間を特別なものにして価値を提供していこうと考えているようですが。私は無理があると思います。

なので、実際にメインになってくる車は仕切りのついた小型のバスのようなもので、ちょっと贅沢して旅行へ行くときなどは家族で貸し切って何か飲み物くらいは冷蔵庫に入っている程度の車両。そしてその他は飛行機で言えばファーストクラスのような扱いで富裕層向けになるのではないでしょうか。とはいうものの富裕層は有人ドローンを使うと私は考えていますが。

部品点数が減る

先ほど述べたように、かなり単純化した車種がメインになり余計な装備は減るでしょう。ミラーやバックカメラなどはもちろん不要です。動画視聴用のモニタ、充電プラグがあればとりあえずいいので、車内はかなり単純化できます。自動運転はかなり安全になるのでシートベルトくらいはあるかもしれませんが、安全装備なども外せるでしょう。

そもそも電気自動車になるとガソリン車に必要なミッションやそのためのオイルなどはなくなりますし、さらにタイヤの中にモーターを入れる(ホイルinモーター)ようにすればタイヤとモーターだけの乗り物になります。ここまでくるとほとんどドローンですね。

ドローンも有人になる

有人ドローンは今も開発中ですが輸送では実験の話も結構聞きます。障害物をあまり考えなくていいので自動運転より実現は簡単かもしれません。富裕層はドローン、他の人は自動運転車両になるかもしれません。

自動車の数はどれくらいになるのか

先ほどの稼働率で言うと1/40、相乗りに近くなるので近所に1台あるような状態を目安として仮に1/10とすると、1/400台位になって道路も駐車場も余って不動産価格は相当下落しそうですね。もっと言うと管制システムによる移動の最適化により、移動自体もおそらく減るのでさらに少なくなることは予想されます。

先ほどの部品点数の話から、自動車産業で働く人がどれほど減るのかも考えると面白いですね。仮に自動車が1/500になるとして部品点数が1/3だとすると単純計算で1500人に一人しか人がいらなくなる計算になります。加えてそもそもAIやオートメーションで人が必要なくなってきており、有人ドローンや5GによるVRの普及などで車以外の選択肢や、移動しなくてもそもそも問題のない人が増えてくると、今の自動車の産業規模を維持するのは不可能でしょう。

まとめ:GAFAが手を出し切れない最後のフロンティア

かつてamazonがウォールマートを駆逐したように自動車産業が消滅するような技術が自動運転になります。もしかしたらUberやテスラが先を越すかもしれませんが逆に言うと自動運転の分野を制することができればGAFAの5人目の騎士になれる可能性もあります。

個人的にはトヨタに頑張ってほしいところではありますが、今までのトヨタの戦略が現在完全に裏目に出ています。チェーンバリューを厚くすることで参入障壁を高くしてなおかつ車両価値を上げ他社とも仲良くするトヨタの手法が、1つの技術や社会の変化、1人の天才で一瞬でビジネスが変わる現在の状況に対応するのを困難にしています。トヨタだけではなくほかの自動車会社も相当焦っているのではないでしょうか。

他にも課金制でどう変わるのか、事故を起こしたら誰のせいか、どういう風に変わっていくのか、保険はどうなるのかなど面白い考察がまだまだできるので、別の機会を考えたいと思います。

AIが人間を超える日はくるのか

AIは現在ただのプログラムに過ぎず、ビジネス上の宣伝文句に過ぎないというお話をしましたが、

では、人間のような本物のAIは実現可能なのでしょうか。

そもそも、人工知能という考え方は数学と哲学の愛の子として生まれました。

哲学とは物事をとことんまで突き詰めていく学問です。前提そのものに対して疑問を投げかけます。

世の中がどうなっているのかを考えると、どうしてもそれを観察している人間の視点を考えなければなりません。においや触覚、光が情報として脳で処理され、世界を認識しています。

脳がなければ世界がないといえるでしょう。

我々はウルトラマンが巨大化したことを認識できます。物理学的には質量保存の法則により、巨大化などありえないにもかかわらずです。

それは脳が数学的情報処理によって成り立っているからです。

なので、脳内では現実よりも緩い縛りの下で現実を認識していると言えますし、現実はゲームや小説の一部と考えることもできます。

ですから、神様が存在するとしたら数学的縛りのもとに存在せねばならないし、数学を極めれば人間を0から作り出すことも可能なように思えます。

しかし、理論がもしあったとしても、どうやって現実に落とし込むかが問題です。実際に動いたりしゃべったりしなければ机上の空論に過ぎません。

そこで登場したのがコンピュータでした。

コンピュータを使えば自動で計算ができるので、人間の思考を実現できるのではないかと考えました。

しかし、コンピュータの性能が上がり、新しい考え方が登場するたびにブームになったり廃れたりを繰り返してきました。

現在のディープラーニングやAIもその一つなので、ブームはおそらく去るでしょう。

ブームが去ると今度は「やってるとダサい」になるので、また冬の時代が来ると思います。

なぜディープラーニングが人工知能を実現できないかといえば、つまり、「人間とは何か」がわかっていないからです。

今でも数学で証明されていない問題はあります。

自分たちが何者かもわからずに自分を作り出すことはできません。というか意味がありません。

人間には生殖能力があるので、人間を生み出したければ人間の子供を産めばよいだけです。

人間が何者でどういう動作をし、どう制御できるのかを完璧に理解して生み出したものが人工知能なのです。

しかし、確かに学問的な成果、人類の到達点としての人工知能としてはそれが正しいのですが、それが何の役に立つのかという問題もあります。

チューリングテストというテストがあります。

人工知能の父といわれるアラン・チューリングが考えたテストで『イミテーションゲーム』という映画を観た方ならご存じだと思いますが、隣の部屋の人にコンピュータで自動でメールする場合と、人間がメールする場合で、両者を隣の部屋にいる人が区別できなければ人工知能として完成であるという考え方です。

このテストはもうすでにクリアされていて、14歳の少年と区別できない人工知能は完成しています。

しかし、もちろんそれで人工知能が完成したとは言えません。

実はこれはアラン・チューリングの皮肉に過ぎなかったのです。

彼はコミュニケーション障害があり、人間関係そのものに懐疑的だったようです。チューリングテストとは、「実は人間はコンピュータでもできそうなことをやっているだけで、いくらでも入れ替え可能である。」というチューリングのメッセージでした。

これは現代において、非常に示唆的なメッセージだと思います。

『ホモ・デウス』という本に書いてありますが、今にSiriやgoogleが我々以上に我々に詳しくなり、我々の行動を決定できる日が来ます。

朝寝坊しそうになったら起こしてくれて、カギを忘れたら注意してくれる。恋人との相性も、占い師よりはるかに高い精度で教えてくれるでしょう。

向いている仕事や、食べるべき食事など本人が決めるより早く正確で信頼できるようになります。

「自分のことは自分で決めたい」という人もいるでしょうが、人の管理能力は有限であるのに現代は情報にあふれています。

晩御飯を何にするか迷っていたら、見る予定だったTV番組のことを忘れてしまったりもするでしょう。

そもそも自分のことを自分で決めている人などいるのでしょうか。

かつて結婚相手などは、村で近所の人がそれなりの人を連れてきたりして、別に自分で決めていませんでした。

その後、自由に相手が選べることは素晴らしいということで、自由恋愛ができるようになったものの、結局は職場やお見合いの狭い世界で結婚する人がほとんどで、人類すべてから選んでいるわけではありませんでした。

現在はネットのつながりがあるので、ある程度広い範囲から選べるのかもしれませんが、自由になると今度は積極的に行動しなかった人は完全にあぶれてしまうようになりました。

「こんなことなら誰かが決めてくれたほうが楽だった」と言い出す人がいそうです。

それに完璧に答えるのがSiriやgoogleです。

結論:今後自分の意志で決定できる人はごく一部になる

自分の人生に責任を持てるのは自分しかいません。

我々が今後すべきなのは、「スマホが嫌いだから使わない!」と言って自らの選択肢を狭めるのではなく、かといって決断を誰かに丸投げするのでもなく、興味のない分野はSiriやgoogleの助言を聞き、自分の本当の趣味ややりがいを感じることにリソースを傾けることでしょう。

自分の意志、生き方、ゴールを明確に持っているかどうかが、今後の格差社会の本質になるかのです。

AIで無くなる仕事

2013年オックスフォード大学のマイケル・オズボーン教授の論文によると、10~20年で47%の仕事が機械による自動化で失われると予測しています。

実は海外に受注できる仕事も50%程度あるそうですがこの二つがどれだけかぶっているかは不明です。もしかしたら先進国の人間からはすべての仕事が失われるのかもしれません。

まず、以前このブログで書いたようにAIとは本質的にはプログラムによる自動化のことなのでディープラーニングを使っているかどうかは本質的には関係ないということでした。

人類は有史以前から自分たちの作業を単純化、効率化、仕組み化してきました。火の起こし方や獣の狩り方、食べられる植物の集め方など、大昔は何代にもわたって受け継がれていたのでしょう。

彼らの時間の感覚は非常に遅く、ちょっとした改革を起こすのにも世代を幾つか要したはずです。

それこそ、狩猟採集から農耕へ移行するのにも何万年もかかっているのでしょう。

しかし、工夫が工夫を呼び、効率化がさらなる効率化を呼びました。

ITバブルからケータイの普及、ディープラーニング。これらはここ20年程の出来事です。

スティーブ・ジョブスが生前、数少ないビデオインタビューで「コンピュータによる技術革新の100年が今始まったばかりだ。」と言っていました。

人間の積み上げられるシステムはまだまだ残っているようです。身近にある効率化できる仕事はいくつもあるように思います。

私が最初に思いつくのはコンビニです。

歓迎してもいないのに必ず「いらっしゃいませ」といい、感謝もしていないのに「ありがとうございました」という。実作業はレジ打ちと品出しですが、会計処理は単純なので子供でもできます。品出しは必要な気もしますが、常時店にいる必要はないでしょう。工夫次第では品出しも必要ないように思います。

確かに気持ちよく挨拶されればうれしくなりますし、美男美女がいればそれを目当てに行く人もいるでしょう。

しかし、どんな接客をしようと、コンビニの売り上げが大幅に変わることはありません。結局費用対効果を考えて近くの店か安い店に行くでしょう。

コンビニの自動化の議論で必ず「接客がいないと寂しい」という話になりますが、そんな人達も結局は安い店に行くのではないでしょうか。

自動化した店のほうが店員を雇わなくていい分、価格は抑えられるからです。例えそれで自分の子供の雇用を奪うことになっても。

寂しいという人は店内のスペースで客同士コミュニケーションをとればいいでしょう。

もっと言うと店員が必死に接客をしようと、店員に何か有用なスキルが身につくわけでもありません。

人生に無駄はありませんが、それを評価してくれるのは他人です。

コンビニ店員のキャリアを高く評価する企業や顧客がいるとは思えません。

コンビニ店員の雇用を生み出すより、若者にスキルの身に着けられる職場を提供したり、トレーニングの機会を与えるほうが社会にとって大切なのではないでしょうか。

店の自動化の試みは以前からありました。なので、技術的にはすぐにでもできますし、現にキヨスクや大手スーパーではやっています。技術革新などなくてもできることはいくらでもあります。

電子書籍などもそうで、私は10年ほど前にKindleを買いましたが、最初に見たときは「なんじゃこれ」と思いました。画面が子供のころに遊んだゲームボーイと同じだったからです。

ゲームボーイとはNintendoのケータイゲーム機で、当時最初に出たときは白黒でしたが、夢中になって遊びました。

画面の解像度などは違いますが、基本的に中身は大差ないでしょう。

つまり、電子書籍とは技術革新の結果生まれたものではなく、持ち運びやすさ、収納性、管理のしやすさなど、モノがあふれた現在の社会状況に必要とされた結果普及しただけだということです。

なので、なくなる仕事を考える場合、AIがどうとかはひとまず置いておいてもいいのかもしれません。

結論:仕事を一所懸命やればいい

身近にある単純な仕事をとことんまで効率化し、究極的には自分自身不要になるところまで仕組み化をやってみるべきでしょう。

我々は現在狩りにもいかないし、木の実を集めなくても飢え死にしませんが、昔はよかったとを嘆く人はいません。

しかし、狩りに行きたければ行ってもいいし、獲物がいる限り猟師がこの世からなくなることもありません。

状況はあまり変わっていませんが、スピードが速く、戸惑っているだけなのです。

AIとは何なのか(簡単に説明)

近年何でもかんでもAI、AIですね。一時期のマイナスイオンを彷彿とさせます。「AIで仕事がなくなる」とか、「AIの搭載されたエアコン」とかです。

しかし、専門書を読むと、専門家が難しい説明をしているだけで、今のビジネスの現状とごっちゃになってい議論されています。そこで、AIとは何かの本質は置いといて、これからどう役に立つかを簡単に説明したいと思います。

ユーザーは単なる自動プログラム程度に思っておけばいい

全くテクノロジー系の知識のない人の場合AIといわれると、「何だかよくわからんがITですごいイノベーションが起こっていつかは人間みたいなのも作れるらしい」

というところだと思いますが、

現状で一番近いAIの定義は「ディープラーニングを使っているプログラム」です。

もともとは画像認識のコンテストでディープラーニングを使ったプログラムが、他を圧倒する成績を出したことから注目が集まり、それからみんなディープラーニングを使いだしたのが始まりでした。

しかし、プログラムである以上、人間がしていることを代わりにやっているだけなので、それほど難しく考える必要がなく、ユーザーとしてはたんなるプログラムであり、特別なものではないと思っておけばいいと思います。

よく仕事で「AIを使えば自動化できるのではないか」という話を聞きますが、しかし、「別にディープラーニングじゃなくても出来ますよ」というものが多いです。

なので、AIの前にまずプログラミングを勉強しましょうということですね。

ディープラーニングは何が優れているのか

ディープラーニングとはニューラルネットワークの1分野として90年代ごろにはすでにあったのですが、ただ計算量が膨大になるので、なかなか優位性を発揮できていませんでした。

近年コンピュータの性能の向上によりやっと使えるようになってきたということです。

ディープラーニングが優れているのは、画像認識などのデータが膨大でそれぞれのデータが複雑に相関しあっていて、簡単に閾値を決められないものに有効です。

例えば、画像などはそもそも粒々が集まってできているので、例えば犬を認識したい場合、どの粒がどう集まると耳で、目でそれがどう集まると顔で、などとそれぞれの粒々に対して処理をしなければいけません。

他には、農業では気温、天候、湿度、葉の色から病気になりそうな葉を見つけて間引くなど、以前は職人が勘と経験で行っていた作業ができます。

しかし、ディープラーニングといえど、最適解を求めるだけなので、将来的に人間の思考を再現できるとは思えませんが、それはまた別のお話。

そして、完全な人工知能の開発は人類の夢なのでいつか開発はされるとは思います。しかし、これは「ホモ・デウス」という本に書いてありますが、別に人工知能が完成して、単なるプログラムに意識が生まれるかどうかなどその時の人類にはどうでもよくなっている。というのもまた別のお話です。

結論

AIよりまずプログラミングを勉強すればよいということになりますね。