AIが人間を超える日はくるのか

AIは現在ただのプログラムに過ぎず、ビジネス上の宣伝文句に過ぎないというお話をしましたが、

では、人間のような本物のAIは実現可能なのでしょうか。

そもそも、人工知能という考え方は数学と哲学の愛の子として生まれました。

哲学とは物事をとことんまで突き詰めていく学問です。前提そのものに対して疑問を投げかけます。

世の中がどうなっているのかを考えると、どうしてもそれを観察している人間の視点を考えなければなりません。においや触覚、光が情報として脳で処理され、世界を認識しています。

脳がなければ世界がないといえるでしょう。

我々はウルトラマンが巨大化したことを認識できます。物理学的には質量保存の法則により、巨大化などありえないにもかかわらずです。

それは脳が数学的情報処理によって成り立っているからです。

なので、脳内では現実よりも緩い縛りの下で現実を認識していると言えますし、現実はゲームや小説の一部と考えることもできます。

ですから、神様が存在するとしたら数学的縛りのもとに存在せねばならないし、数学を極めれば人間を0から作り出すことも可能なように思えます。

しかし、理論がもしあったとしても、どうやって現実に落とし込むかが問題です。実際に動いたりしゃべったりしなければ机上の空論に過ぎません。

そこで登場したのがコンピュータでした。

コンピュータを使えば自動で計算ができるので、人間の思考を実現できるのではないかと考えました。

しかし、コンピュータの性能が上がり、新しい考え方が登場するたびにブームになったり廃れたりを繰り返してきました。

現在のディープラーニングやAIもその一つなので、ブームはおそらく去るでしょう。

ブームが去ると今度は「やってるとダサい」になるので、また冬の時代が来ると思います。

なぜディープラーニングが人工知能を実現できないかといえば、つまり、「人間とは何か」がわかっていないからです。

今でも数学で証明されていない問題はあります。

自分たちが何者かもわからずに自分を作り出すことはできません。というか意味がありません。

人間には生殖能力があるので、人間を生み出したければ人間の子供を産めばよいだけです。

人間が何者でどういう動作をし、どう制御できるのかを完璧に理解して生み出したものが人工知能なのです。

しかし、確かに学問的な成果、人類の到達点としての人工知能としてはそれが正しいのですが、それが何の役に立つのかという問題もあります。

チューリングテストというテストがあります。

人工知能の父といわれるアラン・チューリングが考えたテストで『イミテーションゲーム』という映画を観た方ならご存じだと思いますが、隣の部屋の人にコンピュータで自動でメールする場合と、人間がメールする場合で、両者を隣の部屋にいる人が区別できなければ人工知能として完成であるという考え方です。

このテストはもうすでにクリアされていて、14歳の少年と区別できない人工知能は完成しています。

しかし、もちろんそれで人工知能が完成したとは言えません。

実はこれはアラン・チューリングの皮肉に過ぎなかったのです。

彼はコミュニケーション障害があり、人間関係そのものに懐疑的だったようです。チューリングテストとは、「実は人間はコンピュータでもできそうなことをやっているだけで、いくらでも入れ替え可能である。」というチューリングのメッセージでした。

これは現代において、非常に示唆的なメッセージだと思います。

『ホモ・デウス』という本に書いてありますが、今にSiriやgoogleが我々以上に我々に詳しくなり、我々の行動を決定できる日が来ます。

朝寝坊しそうになったら起こしてくれて、カギを忘れたら注意してくれる。恋人との相性も、占い師よりはるかに高い精度で教えてくれるでしょう。

向いている仕事や、食べるべき食事など本人が決めるより早く正確で信頼できるようになります。

「自分のことは自分で決めたい」という人もいるでしょうが、人の管理能力は有限であるのに現代は情報にあふれています。

晩御飯を何にするか迷っていたら、見る予定だったTV番組のことを忘れてしまったりもするでしょう。

そもそも自分のことを自分で決めている人などいるのでしょうか。

かつて結婚相手などは、村で近所の人がそれなりの人を連れてきたりして、別に自分で決めていませんでした。

その後、自由に相手が選べることは素晴らしいということで、自由恋愛ができるようになったものの、結局は職場やお見合いの狭い世界で結婚する人がほとんどで、人類すべてから選んでいるわけではありませんでした。

現在はネットのつながりがあるので、ある程度広い範囲から選べるのかもしれませんが、自由になると今度は積極的に行動しなかった人は完全にあぶれてしまうようになりました。

「こんなことなら誰かが決めてくれたほうが楽だった」と言い出す人がいそうです。

それに完璧に答えるのがSiriやgoogleです。

結論:今後自分の意志で決定できる人はごく一部になる

自分の人生に責任を持てるのは自分しかいません。

我々が今後すべきなのは、「スマホが嫌いだから使わない!」と言って自らの選択肢を狭めるのではなく、かといって決断を誰かに丸投げするのでもなく、興味のない分野はSiriやgoogleの助言を聞き、自分の本当の趣味ややりがいを感じることにリソースを傾けることでしょう。

自分の意志、生き方、ゴールを明確に持っているかどうかが、今後の格差社会の本質になるかのです。