愛玩動物の末路
この間ふと疑問に思いました。「ペットショップで売れ残っと動物はどうなるのだろう」
私がなぜ疑問に思ったのかというと、普通の経済動物には看取りの場面が必ずあるからです。
例えば、『百姓貴族』という漫画があって、農家の生活をテーマにしたギャグエッセイ漫画ですが、内容は農家の生活がいかに非常識かをコメディとして描いたもので、その非日常感や、動物や自然との戯れが面白く、私も大好きな漫画なのですが、ギャグのふりをしてかなりまじめな部分も描いており、その一つが動物を殺処分する話です。
家畜は利益を生み出さなくなった時点で処分せねばならず、それは経済動物として生まれた時点でしょうがないことで、かわいそうだからというだけでペットとして飼っていたら農家がつぶれてしまいます。
農家の人ももちろん殺したくはないし、殺処分が問題というのなら、それを消費する社会全体の問題としてとらえねばなりません。
ですので、農家の方もできるだけ生かそうとするし、苦しまずに何とかしようとしたり、別れの瞬間にもやもやした感じになるのが描かれています。
荒川氏はそこに納得出来なかったようで、その経験がヒット作『鋼の錬金術師』に生かされています。主人公の錬金術師の兄弟は幼いころに母親を亡くし、その寂しさから母親の復活という、禁じられている錬金術を行おうとします。しかし、完璧なはずの術が失敗し、代償に自分たちの体を奪われることになります。
これは荒川氏の「命は特別である」という考えに基づいていると考えられます。
私は最終回で命に対する何らかの答えを示すものと考えていましたが、「わかるはずのないもの」というのが答えだったように思いました。
私の思い込みかもしれませんが、農家の方には命に対するリスペクトがあるように思います。家族経営している場合自分の子供に「モノだから壊れたら捨てるだけ」と教えるとも思えませんし、アメリカのように狭い柵の中にぎゅうぎゅう詰めで育てたり、フォアグラのように不健康に育てて太らせる文化も元々ありません。
ではペットショップの場合どうでしょうか。
経済動物の場合殺す場面は必ずあるはずです。けがや病気にもなるし、大きくなった犬猫は需要は低いでしょう。売れないからといって飼い続けたら餌代がかかるだけですし、よそにあげていたら販売価格自体下がってしまいます。
このブログで書いた曲がったきゅうりの話です。
まっすぐなきゅうりを食べるためには曲がったきゅうりを捨てなければいけません。
2013年に動物愛護法が改正されてペットショップは動物を保健所で殺処分できなくなりました。もちろんそれ以前は何の罪にも問われなかったということですが。
しかし、2014年にブリーダーが80匹の犬を河原に遺棄する事件が発生しました。河原に遺棄することで事件が明るみに出ましたが、もし焼却なり、埋葬なりしていた場合誰にも気づかれません。
実際「引取り屋」という職業は存在し、1匹1万円程度で引取り、採光も換気も十分されていない狭い糞だらけのコンテナの中に押し込めて、亡くなれば処分するということを繰り返しています。
しかし、現在の法律では罪に問うことはできません。
欧米ではペットショップ自体を禁止にしている国が多く、ペットショップとは餌や用品を売っている店のことを言うそうです。その中でも1番厳しいのがイギリスで、動物愛護に関する法律は70を超えるそうです。
結論:知らないでは済まされない。
ペットが売れるたびに補充するための動物を生産し、売れ残りや病気の動物を処分します。かわいいと思って買ったペットの後ろに何匹もの犬猫の死体があることを意識しましょう。